さて。
先日より北野天満宮で「大福梅」の授与が始まったので、本日午後、仕事が終わってからお参りしてきました。
一旦、自宅に戻ると、学期末で短縮授業期間に入っている高校生の次女がいたので「天神さんお参りに行くか」と聞いたら「行く」と。なら途中、参道の上七軒(かみしちけん)でお昼も食べようと、一緒に出かけました。
大福梅(おうふくうめ)とは、北野天満宮の境内で調製された新年の御祝用の干し梅で、お正月の準備を始める毎年12月13日の「事始め」の日から授与されます。※無くなり次第、終了。
起源は平安時代、天暦5年(951年)当時、疫病が流行しており、時の帝であらせられた、第62代・村上天皇が病に伏せられた折、養生に梅入りのお茶を飲まれたところ、治癒されたことに由来し、このことは
「天皇御脳にかかり給いしが、この茶を服し給えば御脳(おのう)たち所に平癒す。これより王服と称して毎年元旦にこの茶を服し給い、萬民これを倣い年中の疫病邪気を除き長寿幸福を得るなり。」
と伝えられています。
なお「大福」とは「王服」からの吉字をあてられていて、この梅を元旦、祝膳の初茶に用いて飲むことで、一年の健康を祈ります。
というわけで本日は、東参道にあたる上七軒からの
東鳥居
東門(重要文化財)
重要文化財です。
本殿(国宝)
御祭神は、菅原道真公。
太宰府へ左遷された道真公は、失意のうちに亡くなられ、その後、京の都では天候不順や政治の混乱が続き、それらの災いは、道真公の怨霊が原因だとして恐れられていました。
道真公の乳母をつとめた多治比文子(たじひのあやこ)が自宅の庭に小さな祠をもうけて道真公を拝んでいたおり、第61代・朱雀天皇の天慶5年(942年)文子のもとに道真公から「北野の右近の馬場に祀ってもらいたい」とお告げがあり、第62代・村上天皇の天暦元年(947年)現在の地に鎮座されました。
北野天満宮は、二十二社の下八社(北野社)で、社格は官幣中社です。
文子天満宮
本殿裏にある摂社・末社の一番奥にあります。
かつて、祠をもうけた「文子天満宮」は、東本願寺の北東あたりに今も鎮座されています。
摂社・地主社
北野天満宮の境内にはたくさんの摂社・末社がありますが、地主社は北野天満宮の創建前からこの地に祀られており、よって北野天満宮の境内は、通常の造りのように楼門をくぐった正面に本殿があるのではなく、この地主社が正面にあり、本殿は左にそれた位置となっています。
三光門(重要文化財)
本殿正面の門。こちらも重要文化財。
楼門
宝物殿
皇家をはじめ、公家・武家からの奉納品が収蔵されています。
境内図
位置関係はこうなります。公式ページより。
早くも、梅が咲き始めていました。
大福梅・御朱印
前回7月にお参りしたときは、コロナ対策で全ての御朱印を書き置きとされていましたが、本日はこちらの北野天満宮の御朱印だけは、御朱印帳へ押印できますとされていました。
【リンク】https://kitanotenmangu.or.jp/sp/index.php
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お昼はこちらでいただきました。
上七軒 ふた葉
京都の花街といえば祇園が有名ですが、上七軒は京都五花街の中で最も歴史が古く、第102代・後花園天皇の文安元年(1444年)室町時代、一部焼失した北野天満宮の修築・造営の残材で七軒の茶店が建てられたのが起こりです。
その後、第107代・後陽成天皇の天正15年(1587年)太閤・豊臣秀吉公が、北野で大茶会を催された際、名物の御手洗団子を献上したところ、大層お気に召され、山城一円の法会茶屋株を公許されたことが、我が国のお茶屋の始まりといわれています。
繁華街にも近い祇園は賑やかで華々しいイメージですが、上七軒は閑静で厳かな花街です。
店内には上七軒の舞妓さんの団扇がずらりと。舞妓さんも、昔からよく食べに来られるそう。
天井には「いろはにほへと」が連なります。
しっぽく、花まき、にしんそば。けいらん、のっぺい、衣笠丼に、木葉(このは)丼。
いかにも「京都のおうどん屋さん」らしいメニュー。笑
ふた葉さんの麺類は、うどんか、茶そばを選べます。
次女は肉うどんを、私はこちら「のっぺい」のおうどんをいただきました。
のっぺいは「しっぽく」のあんかけで、しっぽくは、地方によって「おかめ」や「五目うどん」といわれているものです。
蒲鉾、椎茸、薄焼き玉子、ほうれん草、お麩、海苔などの具材に、あっさりしたお出汁。おろし生姜をたっぷりときかせて。
京都の冬の底冷えの日も、身体の芯から温まります。そういえば今朝は、雪が降ってました。
美味しかったです。御馳走さまでした。
【リンク】うどん・そば 京・北野上七軒 ふた葉