さて、世間では7月の3連休、私は2連休が取れたので(公休日+有給休暇)旦那さんと バイクでぴゅーんと 伏見の藤森神社を参拝してきました。
藤森神社
正門(南門)
元はこの鳥居には、第108代・後水尾天皇宸筆の神額が掲げてありましたが、参道が西国大名の参勤交代の道筋にあたったため、大名らが籠から降りて拝礼する習わしであったものを、幕末、新選組の近藤勇が「このような悠長なことは、この動乱の時代に即さない」と、額を外したといわれるそう。
なんと… そんな大それたことができる(しでかす)力があったのか、当時の新選組…。
これはあまり見かけない「分けかた」ですよね。笑
その「理由」は、後ほど。
西門
一の鳥居
二の鳥居
手水舎
神馬像
絵馬舎
またちらほらと「馬」関連のものが。
拝殿
中央が土間になっていて、通り抜けられる「割拝殿」です。珍しい造り。
本殿(重要文化財)
本殿は、第114代・中御門天皇の正徳2年(1712年)御所より下賜された賢所(内侍所)で、現存する賢所では最古のものとされています。拝殿もまた、御所より下賜されたものだそう。
本殿(中座)の御祭神は、素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇
東殿の御祭神は、天武天皇、崇道尽敬皇帝(舎人親王)
西殿の御祭神は、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、井上内親王
藤森(ふじのもり)神社の創建には諸説ありますが、社伝によると、遡ること、第50代・桓武天皇の平安遷都(794年)より遥か昔、第14代・仲哀天皇の后、神功皇后の摂政3年(203年)三韓征伐の新羅より凱旋された皇后が、この深草の里に「いくさ旗」を立て、兵具を納めて塚を作り、祭祀を行われたことが由緒とされ、以来、朝廷、武家、庶民にいたるまで崇敬されてきた歴史のある古社です。
古来、陸奥の反乱に対し、早良親王(第49代・光仁天皇の皇子。皇位継承はされていないが、非業の最期を遂げられた鎮魂のため、後に、崇道天皇と追称)が、征伐の勅を受けて祈誓出陣された際の擬勢を象った駈馬神事が奉納されること(藤森祭)や、菖蒲の節句発祥の地であり「尚武・勝負」を連想されること、武神が多く祀られていることなどから、馬と武運の社として信仰を集め、現在は競馬関係者やファンからも崇敬が厚い神社です。馬関連のものが境内の随所に見られるのは、そうした理由なんですね。
また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(第40代・天武天皇の第3皇子)を祀られていることから、学問の神様としても信仰されています。
舎人親王崇敬碑
旗塚
神鎧像
藤森神社は紫陽花が有名で、像の脇に「第二紫陽花苑」の入口があります。なお、写真には撮っていませんが「第一紫陽花苑」は正門(南門)の参道脇にある蒙古塚を囲むようにして、広がっています。
蒙古塚は、第119代・光格天皇の天明7年(1787年)刊行『拾遺都名所図会』によると、光仁天皇の天応元年(781年)日本に攻め寄せてきた蒙古の軍勢を早良親王率いる軍が退け、蒙古軍の大将の首を埋めた塚であると記されており、或いは、鎌倉時代の蒙古襲来(文永・弘安の役)のことが、武功祈願の社である藤森神社の祭神・早良親王の事蹟として伝えられた、ともいわれます。
斎館
時期が外れていたので、満開の紫陽花は見られませんでしたが、斎館の前に少しだけ見つけました。笑
「藤の森」神社の花といえば、もうひとつ、社紋にもある「藤の花」ですが、こちらも見ごろの時期ではなかったです。笑
宝物殿
不二の水
藤森七福神
藤森稲荷社
祖霊社
七宮社
蔵王社、広田社、諏訪社、厳島社、住吉社、熊野社、天満社を合祀。
天満宮社
大将軍社(重要文化財)
桓武天皇の平安遷都の際、都の守護神として方位神・大将軍神(素戔嗚尊とも、される)を勧請し、京(大内裏)の四方に祀られた大将軍社のうち、こちらの社は「南の大将軍社」にあたります。
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御朱印帳
こちらも拝受しました(大判サイズ)
【リンク】藤森神社
神社用の御朱印帳は4冊目と、なりました。
大判サイズは、
清明神社、藤森神社。
お昼ご飯は、こちらでいただきました。
吉野家・京都九条店
でたーーーwww
「今さらながらハマってる」チェーンの牛丼屋さんの定食www
そう、また今年もコレが始まったのです!
ねぎ塩豚皿麦とろ御膳(季節限定)この塩ダレの味付けが好きなんだ〜。参拝のため、伏見に向けて南下する途中で、寄りました。
美味しかったです。御馳走さまでした。
【リンク】吉野家公式ホームページ
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