お出かけブログ

旦那さんの通勤用のビッグスクーターをじわじわタンデム仕様にして(◎させて)お出かけを迫る奥さんのブログです。寺社への参拝記事も書きます。

文子天満宮、神明神社を参拝してきた

さて。新型コロナウイルスの第6波による感染急拡大により、京都にまた「まん延防止等重点措置」が発出されたことや、てかそれもだが「そもそも、寒い」ので、暖房完備の家の中に引き篭もっていましたが、ふと思い立ち、文子天満宮をお参りしてきました。

思えば、まだ初詣にも行ってなかったので、本日が令和4年の初詣でした。2月下旬ですが笑

 

文子天満宮

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第60代・醍醐天皇の昌泰4年(901年)突如、太宰府へ左遷された菅原道真公は、失意のうちに亡くなられ、その後、京の都では天候不順や政治の混乱が続き、それらの災いは、道真公の怨霊が原因だとして恐れられていました。

天慶5年(942年)道真公の乳母をつとめていた多治比文子(たじひのあやこ)のもとに、道真公から「北野の右近の馬場に祀ってもらいたい」とお告げがありましたが、文子にその力はなく、自宅の庭に小さな祠をもうけて道真公を拝んでおり、その後、第62代・村上天皇の天暦元年(947年)北野天満宮が創建されました。

このように北野天満宮が創建されるきっかけをつくったのが多治比文子であったことから、文子天満宮は「北野天満宮の前身神社」と称され、菅原道真公を「天神」として、最初にお祀りした神社であることから「天神信仰発祥の神社」とされています。

また他方、醍醐天皇の勅願にて菅原道真公の神霊を勧請し、建立された水火天満宮は「日本で最初の天満宮」とされています。


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本殿

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本殿の御祭神は、菅原道真公。

相殿の御祭神は、 伴氏(菅公御母君)、是善公(菅公御父君)、多治比文子(菅公乳母)の三柱。

 

菅公腰掛石

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太宰府に御左遷の途のお立ち寄りの際、腰掛けられたといわれます。

 

文子殿

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御祭神は、菅原道真公、多治比文子。

 

天神信仰発祥について

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手水舎

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龍が施されています。

 

末社・白太夫社、老松社、福部社、火之御子社

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末社・白瀧稲荷大明神

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御朱印

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【リンク】文子天満宮 | 文子天満宮は天神信仰発祥の神社、北野天満宮の前身神社です。

 

続きまして、

 

神明神社

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第76代・近衛天皇が度々行幸されたと伝わる藤原忠通近衛天皇妃の養父)の屋敷跡であり、神明神社はその邸内にあった鎮守の社で、創建は平安時代の末期頃といわれています。

近衛帝の時代、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れては都を騒がせており、弓の名手であったという源頼政が退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、鵺退治に成功しました。

この時、使われた弓矢の「やじり」二本を頼政が奉納したものが宝物として伝わることが、神明神社が「厄除け・火除けの神」ともされる由縁であり、また、榎の大木があったことから「榎神明」とも言われていました。

その後は、天台宗の護国山立願寺・円光院(現・廃寺)によって管理されていましたが、明治初期の神仏分離令によって社だけが残され、以降、地元の神明町がその管理を行われており、のちに戦後、文子天満宮が合祀され、文子天満宮神職の方々がおまつり等の社務を兼務されています。

 

本殿

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御祭神は、天照大御神

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社殿の中に、宝物の「やじり」の写真が祀られています。

 

「鵺」伝説について

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神社横の路地は「通り抜けできません」と。時折、見かける「京都あるある」のこうした注意書き笑

 

御朱印

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社務所無人で、書き置きの御朱印が境内の長机に文字通り「置いて」ありました。参拝日はご自身で記入してください、お心持ち(お納め料)は賽銭箱に入れてください、とされていました。

【リンク】神明神社|【京都市公式】京都観光Navi

 

お昼ご飯は、こちらでいただきました。

松粂

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一人だったので表のカウンター席へ案内していただきましたが、奥の座敷の向こうには裏庭が見える、いかにも「京都の町家造り」のお店でした。

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お昼のミニ会席セット。

盛り付けも美しく、食事を楽しませていただきました。

美味しかったです。御馳走さまでした。

【リンク】松粂(四条烏丸/おばんざい) - Retty

 

こちらのお店は、万寿寺(通)新町(通)東入ルにあり、昔から京都では室町通を中心として縦は新町通から烏丸通まで、横は三条通から五条通まで、多くの呉服商が並ぶこの界隈一帯を「室町(むろまち)」と総称し、大阪の「食いだおれ」に対し、京都が「着だおれ(きだおれ)」のまちといわれた発祥の地でもあります。

余談ですが、
うちの父は生前、長らく室町で悉皆の仕事をしていて(悉皆/しっかい。ざっくり言うと、呉服問屋さんから反物や着物を預かって、それぞれの職人さんや加工業者さんを回っては仕事を依頼し、仕立てやお直しを施して問屋さんに納品する「呉服の総合プロデューサー」的な)子どもの頃は、年始の挨拶がてら毎年正月には父の勤める会社に皆、家族連れで集まり、お年玉をいただいたり、同じ年頃の子達と羽子板や双六で遊んだ思い出もあり、この界隈には、ひとしおの懐かしさを感じます。
また、さらに遡ると、その加工業者さんのひとつで受付をしていたのが、若い頃のうちの母だったそうで、母に一目惚れをした父は仕事にかこつけ、何かと母の勤め先に出入りしていたと…。
生前の母いわく、当時、母は父が来るたび逃げ隠れていたそうですが、同じ受付にいたヒトミさんという先輩から父が自宅(実家)の住所を聞き出したようで、ある日、家に帰ったら自分の父親と酒盛りをしており、父親も母親も彼を気に入り、外堀を埋められた母は、そうして父との交際が始まって、結婚に至ったと…。

いやまあ、今でこそ笑い話やけど、
いろいろヤバい。

 

正味の話、
「オトン、行動力ありすぎるストーカー」やし、
「ヒトミ先輩、勝手に後輩の個人情報バラしてる」しww

 

でもそんなこんながなければ、私も生まれてなかったかもしれないので、結果的には、父の強引なアプローチに協力したヒトミさんが「親交を早めたキューピッド」だったのかもしれない笑